プロヴィンスタウンでポルトガル系移民が漁業とアート文化に与えた歴史的影響とは

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プロヴィンスタウンのポルトガル文化を活かす方法

  1. 10日間でプロヴィンスタウンのポルトガル系移民の歴史を調査し、漁業とアートの貢献についてまとめる

    彼らの影響を理解することで、地域の文化をより深く感じることができ、観光客の増加にもつながります(例: 2025年の観光客数を10%増やす)

  2. ピルグリムタワー周辺の歴史とポルトガル文化を写真展で紹介する

    視覚的な情報を提供することで、訪問者の理解を深め、地域への関心を高めることができます(例: 3ヶ月で投稿数が20%増加する)

  3. アートシーンと観光業の発展について、地元のアーティストや作家と話し合う

    現地のクリエイティブな人々との交流を通じて、地域の文化的価値を高め、観光客の滞在時間を延ばすことができます(例: 平均滞在時間が2日増加する)

ポルトガル系アメリカ人がプロヴィンスタウンの漁業発展を支えた理由

プロヴィンスタウンって、あー、ケープコッドの一番端っこにあるほんと小さい町。たぶん普段アメリカの有名な都市とかと比べたら、マジで人口4000人ぐらいだから、どこ?って感じなんだけどさ、あれ、本当にそんな感じ。

でね、昔…まあ1800年代の終わり頃から1950年ぐらいまでだったかな、この町って実は住んでる人の半分近くがポルトガル系アメリカ人だったって聞いた。アゾレス諸島とか、あっちの本土からの移民がわんさか来てて、ほぼ全員漁師か魚の加工場で働いてたみたいなんだけど、うーん、漁師の町だったって言って間違いない。あ、思い出したけど魚臭い街って言われたこともあったらしいよ。

でもねぇ、その漁業もだんだんダメになっちゃって、結構な人たちが出て行ったりしたみたい。あ、それでも今もポルトガル系アメリカ人の漁船いくつか残ってるっぽいけど…やっぱり今は観光客がわんさか来るのが経済の中心っぽい。

あとさ、目立つ建物といえばピルグリム・タワーなんだけど…意外とこれもポルトガルといろいろ関係してるとかで、そういう話聞くと「え、ここまで?」みたいな。なんか、不思議な町だなーってちょっと思った。

ピルグリムタワーが町の歴史とポルトガル文化に与えた影響を調べよう

253フィート…77メートルね、この花崗岩の塔、あれってイタリアのシエナに1309年に作られた塔がモデルなんだって。意外じゃない?正直これ知ってる人ほんと少なくて、自分もちょっとびっくりした。

プリマス・ロックってよく聞くじゃん。ピルグリム・ファーザーズが1620年に定住した場所だとか。でも実際は最初、今のケープコッド先端 - プロビンスタウンに最初に上陸してるんだよね。それで何やってたかというと…んー5週間ぐらいかな、ケープコッドとか湾内を探検しまくって、その間になんか「メイフラワー契約」まで書いちゃった。つまり自治についてみんなで決め事作ったわけ。そのあと、「やっぱプリマス側行こう」みたいな流れだった。

えっと、1890年頃にはプロビンスタウンの人口4,600人くらいで、それがピークだったらしい。でもさ、その時ポルトガル系住民が全体の45%にもなってたの、知らなかったよ。でも歴史家の話だとヤンキー(アングロサクソン系)は依然として政治権力持ち続けてて、モニュメント計画とか立てちゃう。経済的・政治的なポジションを改めて主張したかった…そんな感じなのかも。

ピルグリムタワーが町の歴史とポルトガル文化に与えた影響を調べよう

どうしてピルグリムタワー建設期に政治的緊張が生まれたのか知ろう

20世紀の最初の頃、アメリカ南部ではジム・クロウ時代のコンフェデレート記念碑がいろんな場所に建てられてたんだよね。あ、なんかこれ…歴史っていうより雰囲気というか、そんな時代だったんだなって今になって思う。で、その流れなのか知らないけど、マサチューセッツ州でも町とか都市から寄付が集まった結果、ピルグリム・モニュメントを作ることにしたっぽい。

ピルグリム・モニュメント自体は1909年に献納されてる。これも意外と大ごとだったらしくて、1907年にはセオドア・ルーズベルト大統領が定礎式に来て石を置いてるし、それから1910年に完成した時もウィリアム・タフト大統領まで献納式やりに現地まで来たという…。わざわざ来る?って感じだけど、当時はそれくらい意味があったのかな。

あとね、このピルグリム・モニュメントはいまだにアメリカで一番高い花崗岩製の建物なんだってさ。自分は全然知らなかった。それだけじゃなくて、この塔みたいなのがずっとプロヴィンスタウンを見下ろしてる感じで、本当に町で一番目立つ。「監視」…ちょっと言いすぎかもしれないけど、それぐらい存在感あると思う。

こういうシンボル的なものって、プロヴィンスタウン住民―特にポルトガル系コミュニティからすると、“誰がここへ最初に来たんだっけ?”とか、“結局この土地で自分たちはどう見られているの?”みたいなことを考えさせられるきっかけにもなるよね。この前メモ書いたダイトンロックやプリマスロックの記事でも同じ空気出てた気がする。“『ピルグリムVS…』シリーズでも作れそう”なんて冗談言ったけど、本音としては、それくらい対比構図というか違和感みたいなの残り続けている気がする。

1910年代プロヴィンスタウンでアートシーンと観光業はどう始まったか探す

ポルトガル人が一番最初にここへ来たよ、っていうのをアピールするためにダイトン・ロックの記念碑が建てられた。…それが完成してから30年ぐらい経った後の話があって、なんかちょっと面白くなる。

1942年、不景気な時代に政府のカメラマンだったジョン・コリアーって人が写真を撮影したんだ。「プロヴィンスタウン、マサチューセッツ。市議会の人たち(みんなポルトガル系)、全員集まって会議中。その後ろには巡礼者達が最初に上陸して誓約書を書いた場面を描いた絵」という感じのキャプション付けてる。…キャプション長すぎ!笑

今でもプロヴィンスタウンではポルトガル系アメリカ人文化をお祝いしてて、毎年6月最後の週末になると「Portuguese American Festival」ってイベントやるらしい。パレードとか、「Blessing of the Fleet」(船団への祝福。だいたい司教さんとかがやるっぽい)がメインイベントなんだって。それ聞くだけでワクワクしない?めっちゃ賑やかそう。

なぜ市議会でポルトガル系リーダーたちが活躍した時期があったのか理解しよう

よく聞かれるのが、「They Also Faced the Sea」っていうやつ。あれ、2001年に港の突堤…いや、たぶんドックビルのあたりかな?そこに建てられてる写真インスタレーションなんだけど、見たことある?結構デカめでさ、大きな写真がずらっと並んでて遠くからでもわかる。ふと歩いてると「ああ、これか」ってなるやつ。

それで写ってる人は、Eva SilvaとかMary Jason、それにBea CabralとFrances Raymond、あとAlmeda Segura。この5人はみんなポルトガル系アメリカ人の女性。妙に親しみというかリアリティある表情しててね。なんか「この町にもこんな人たちが本当にいたんだな…」みたいな気持ちになる。

モニュメント自体は女性の役割を称える意図もあるけど、その写真を撮ったNorma Holtと、一緒に仕掛けたアーティストEwa Nogiec、この2人によるもの。でも普通の記念碑っぽさじゃなくて、白黒だしシンプル。でも逆にインパクト大きい。不思議と忘れられない感じもする。まあ単純な飾りとは違うと思う。本当にちゃんと歴史的な意味がこもってるから、足止められるというか…うまく言えないけど、それくらい印象強い。

祝祭と写真展示で今も続くポルトガル文化を体験する方法を見つける

観光の話だけど、Provincetownって実はけっこう昔からこの分野に本気だったんだよね。なんか、1893年に鉄道が開通した瞬間、一気に流れが変わったみたいな感じ。正直それまで何やってたのかあんまり詳しくはないけど…とにかく、その鉄道のおかげで、毎年夏になると、美術学校を目当てに学生とかアーティストとか、百人単位で集まってくる場所になっちゃったらしい。

1916年にはボストンの新聞が「世界最大のアートコロニー」とまで言い切ったっていうから、本当にびっくりする。今もその影響全然残ってて、夏になればギャラリーも60軒ぐらいドーンとオープンするし。でも、この町自体の人口見たら4000人しかいないからね?もう全然規模感合わないというか…

だから、観光シーズンになるとめっちゃ混む。本当に住んでる人数一気に何倍にもなって、「これ絶対普段より多すぎじゃ…?」ってくらい賑わうみたい。そういえば、高速フェリーもあるからBostonからCape Cod Bay渡ってピューッて簡単に着けるんだよ。個人的にはその移動手段めちゃありがたいと思う。

祝祭と写真展示で今も続くポルトガル文化を体験する方法を見つける

アーティストや作家コミュニティの拡大で町はどんな変化を遂げたのか学ぼう

アメリカの有名な作家たち、ほら、芸術家と同じくプロヴィンスタウンに集まってきてたみたいなんだよね。1年ずっと住んでたり、ほんの短い間だけだったり、その辺バラバラ。でも何かこう、不思議と惹きつけられる場所だったんだろうな。

例えばさ、戯曲のユージン・オニールやテネシー・ウィリアムズ、カート・ヴォネガットもここで暮らしてたことがあるって言うし。それからノーマン・メイラーも時々来てたとか。知ってる?意外と多いんだよね、この地ゆかりの人。

で、大事なのはヘミングウェイとドス・パソス。この二人は特別というか…ドスって呼ばれてたドス・パソス(ポルトガル系アメリカ人作家)、彼は人生通してヘミングウェイの親友だったっぽい。「あ、そうだ」ドス・パソスは結婚してからも長くプロヴィンスタウンにいたみたい。その間もヘミングウェイがちょくちょく遊びに来てたんだとか。いいなーそういう関係。

ヘミングウェイやドス・パソスら有名人とポルトガル系住民との関わり方を見る

禁酒法の時代さ、なんかポルトガル系アメリカ人のおじいさんたちがみんな酒をこっそり持ってきてくれてたんだよ。周りはそういう人のことを「boy」って呼んでたって聞いた。ああ、なんか昔っぽい呼び方だな…今だと全然違う意味に取られそうだけど。

思い出したけど、昔はプロヴィンスタウンではポルトガル系アメリカ人がほんとに町を引っ張ってたんだよね。でも今は漁業も小さくなったし、人もだいぶ減ったって。今の人口、3,700人くらいしかいないんだって。住民の中でポルトガル系ってもう15%くらいしか残ってないみたい。

えーっと、主な産業?正直言うと完全に観光!この場所さ、最近はLGBTQ+の人たちにも有名でさ、ゲイコミュニティ目当てで訪れる人がめちゃ多い。それで、なんか前から住んでるポルトガル系アメリカ人、小さい家とかをすごく高く売ってケープコッドの他の町に移るパターンが多いみたい。というか、不動産サイト覗いたら普通に小さい家でも何百万ドルとか載ってて、「え?」って感じになったわ。これ本当にありえるの?ちょっと信じられない値段だったよ。

ヘミングウェイやドス・パソスら有名人とポルトガル系住民との関わり方を見る

観光地化とLGBTQ+文化によってプロヴィンスタウンはどんな町になった?

300平方フィート、たぶん28平米くらい? そのスタジオアパートが75万ドルで出てるって聞いて…いや、ちょっと現実感なくなるレベル。こんな値段で誰が買うんだろう。感覚おかしくなりそう。

あー、それとね、この町に住んでるカップルの話なんだけど、同性愛カップルの割合が全米でもけっこう高くてさ、とくに女性同士だと全国トップだったはず。男性同士でも上位3位に入ってた、確か。何回見てもこの数字すごいよなーって思う。

AIでゲイフレンドリーなリゾート地調べたら、一番最初にプロヴィンスタウンが出てきたよ。12箇所くらい挙げられてて、その中の一つ目だった気がする。まあ有名だしね。

もともとは漁師の町なんだけど、今じゃポルトガル系アメリカ人の人たちにも新しいストーリーというか、なんか「ゲイリゾートタウン」として語られること多くなった気がする。あぁ、ちなみにこのへんで育ったから、ポルトガル系アメリカ人文化には少し親しみある…かな。あまり意識したことなかったけど、空気とか食べ物とか、不思議と身近なんだよね。

歴史地理学者による南東ニューイングランドでのポルトガル系移民研究を知る

最近考えてたんだけど、僕もう大学の地理学教授は引退してて、まあ…今はAmazon.comで「Making History - Creating a Landscape: The Portuguese American Community of Southeastern New England」っていう本を書いてる。いや、本当、もしなんか面白そうって思ったら見てみて?時間あるときに。

それからね、「The One-Minute Geographer」っていうシリーズもよく書いてる。これね、もし読んでみたいなと思ったらリンク踏めばメール通知が来る仕組み。そんな頻繁でもないかな、多分月に3回くらい更新することが多い。

そういえば、ちょっと前に書いた投稿も結構気に入ってて…例えば「A Portuguese Exploration Mystery」とかさ、「"Little Portugal" in the USA」とか。正直、自分でもたまに読み返してニヤッとしちゃう感じ。まあ地理の話題ばっかだけど、こうやって色んなこと発信してるよ。

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