私たちは「良い人生(good life)」を生きているのか、それとも「見栄えの良い人生(good-looking life)」を演じているだけなのか——この違いを意識することが、social media時代の満足感を左右する。
かつての「良い暮らし」は、もう少し内側にありました。心の平穏、良い人間関係、十分なお金、余暇。だいたいそれで足りた、という感覚。ところが「いま」は、良さが外側へ滲み出るというより、外側で成立してしまう場面が増えた、という見方ができる。美しい部屋、凝った外食、新しい車、うまくいっている仕事。そういうものが、誰かの目——つまり“witnesses(目撃者)”——がいるほど価値を帯びるように見える。
良い人生と、見栄えの良い人生は同じではない
「見栄えの良い人生(good-looking life)」は、必ずしも「良い人生(good life)」を意味しない。
外側が整って見える生活ほど、内側が空っぽ、ということがある。もちろん常にそうだと言いたいわけではない。けれど、外から見える“印象”は、本人の安心や充足と一致しない場合がある。逆に、目立たない選択をした人が、落ち着いた心を得ていることもある。普通の家、特別ではない仕事、騒がしさの少ない日々。そこに魅力がない、と決めつける必要はない。
ここでややこしいのは、見栄えが悪いから良い、という話でもない点。派手さがないことは、単に派手さがないだけ。けれど「派手さ=価値」と見なす回路が強くなると、静かなものが過小評価されやすい。そういう偏りの話。
social mediaが自己認識と比較の仕方を変える
social mediaは交流の形だけでなく、私たちが自分の生活をどう見積もるかにも影響し、他者比較を強めやすい。
画面の中では、誰もが誰かの“すごい出来事”や“素晴らしい達成”を見せ合う。Instagramのような場では特に、旅行、食事、仕事の成功、何かの完成形が並ぶ。で、つい忘れる。写真は一瞬だということを。そこに写っているのは、人生の5-second-longの切り抜きで、highlights(ハイライト)に過ぎない。
生活はもっと複雑で、長い。良い日もあれば、冴えない日もある。決めきれない迷いもある。けれど、タイムラインに並ぶのは切れ味の良い断面だけになりがちで、見る側はそれを“全体”のように受け取ってしまうことがある。たぶん、このズレが、地味に効いてくる。
「likesのために生きる」状態が起きるとき
他者の評価(likes)を意識しすぎると、出来事を「自分の体験」ではなく「他人の判断の対象」として眺めてしまうことがある。
出来事を経験しているはずなのに、どこか観客席に立っている感じ。自分の目ではなく、“他人がどう見るか”の目で自分の生活を観察する。そうなると、豪華な夕食が「食事」ではなくなる、という比喩が出てくる。豪華な夕食は、post-statement(投稿のための主張)の材料になりやすい。ユニークな休暇は、vacation(休暇)というより、social media storyのplot(筋書き)になりやすい。
急に冷める。スッと。
この流れが続くと、「生きること」が少しずつ「likesのために生きること」へ寄っていく。共有そのものが悪いわけではない。そこは大事で、原文もバランスを残している。問題になり得るのは、共有しないと何も始められない状態、あるいは体験の前に“まずカメラを選ぶ”ことが常態化する点。すると、出来事が出来事でなくなる——anti-event(反出来事)という言い回しは、その感覚を指す比喩として置かれている。
終わりのない競争と、動くゴールポスト
「常に誰かが上にいる」という前提は、ゴールポストのない競争を生み、同じ方向へ走らせやすい。
見たところ(apparently)、いつでも自分より達成が多い人、資質が高い人、地位が高い人がいる。そう見えてしまう。すると競争が始まる。でも、その競争には誰も明確な終点を置かない。置けない。だって比較対象が無限に更新されるから。
結果として、「みんなが前にいる」ように感じるなら、自分も同じ方向へ進むのが合理的に思えてしまう。ここが罠っぽい。方向が本当に自分の望む方向かどうか、確認する暇がなくなる。
「普通」に慣れていない、という感覚
普通を退屈や凡庸とみなすほど、日常の価値は見落とされやすくなる。
他人と比べる癖が強くなると、普通のものがつまらなく見えてくる。別に普通が絶対に良い、と言いたいわけではない。ただ、普通の中にある良さを“無いこと”にしてしまうのは、損が大きい。
たとえば、親族と家で食べる良い夕食。友人との散歩とコーヒー。ぐっすり眠れて、朝に犬と歩くこと。こういうものは、a thousandのInstagram storiesに並ぶ完璧な写真より、楽しいことがある。これは好みの話でもあるけれど、「目立つものだけが幸福の材料だ」と思い込むより、ずっと現実的だ。
成功は個別定義だが、「公的な成功」は記号になりやすい
成功の定義は人によって異なる一方、公的に成功を演出すると、お金・車・豪邸・ステータス・ロゴ・旅行が「成功のサイン」として記号化されやすい。
success(成功)は測り方がいろいろある。客観的な到達点の場合もあれば、積み重ねのprocess(過程)として感じられる場合もある。ある人にとっては大金、ある人にとってはキャリア、また別の人にとっては大家族、あるいは自分の時間や自信かもしれない。ここまでは、かなり個別の話だ。
でも「人に見せる成功」になると、意味が変わりやすい。高い収入が、ある人には高価な物を買い、家を飾る力として現れる。別の人には、早期にretire(引退)して旅をする自由として現れる。にもかかわらず、外から見える要素——money、salary、cars、mansions、status、logos、exotic vacations——が、成功者のサインとして読み取られやすい。読み取りやすいから、というのがたぶんポイントで、内側の充足より表示が簡単なんだよね、という話になっていく。
完璧な写真が生む落とし穴:正直さへの恐れ
完璧なイメージの提示が「現実そのもの」と信じられると、拒絶への恐れから正直になれない状況が生まれ得る。
良いものには罠がない、とは限らない。むしろ、完璧なpicture(写真)がいくつかの深刻なpitfalls(落とし穴)を隠してしまうことがある。皆が「写真に見える通りが現実だ」と思い込むほど、外れた部分を出しにくくなる。正直に言ったら拒絶されるかもしれない、という恐れが先に立つ。
そして、世界に向けて提示する“完璧な人”のイメージは、本人の実像と大きく違うことがある。成功をみんなが知っているように見えるのに、本人はinsomnia(不眠)に苦しんでいて、問題をどう扱えばいいのか分からない——そういう可能性は否定できない。ここは断定ではなく、「あり得る」という留保が付く話だ。
必要だから買うのか、存在するから買うのか:advertisingと象徴
advertisingは必要性よりも、物に付与された象徴的意味(成功・美・友情・冒険など)を通じて購買を促し得る。
買い物が、無意識のassociation(連想)で起きる場合がある。欲しいから買うというより、その物が象徴する意味を買う。cars、clothing、gadgets、その他のmaterial items(物質的な品)が、success、beauty、friendship、adventureを象徴してしまう、という構図。
advertising(広告)は、たいてい「必要です」とは言わない。そこ、露骨には言わない。代わりに「これがないと理想の自分が成立しない気がする」方向へ気分を押してくることがある。しかも“この正確な価格の、このモノ”で、という形で。必要性の論理ではなく、意味づけの論理。
もし誰にも見られなかったら:Instagramが存在しない仮定
Instagramがなく、誰も投稿にlikeできないと仮定すると、選ぶ行動や支出が変わる可能性がある。
imagine(想像してみる)。Instagramが存在しない。誰もあなたの投稿や写真にlikeできない。そうしたら、個人アカウントに何を載せるかは、そもそも問題にならない。すると選択が変わるかもしれない。
たとえば、写真に撮って投稿する必要がある“物”にお金を使うより、travel(旅)を選ぶかもしれない。あるいは、experiences and adventures(経験や冒険)よりも、time and comfort(時間と快適さ)を優先するかもしれない。ここは少し曖昧で、どちらが上という話ではない。ポイントは「見られる前提」が外れると、優先順位の並びが変わり得る、というところ。
良い人生は、目立たない場所に置かれていることがある
ストレスの減少や関係改善、安定、自尊心など「目に見えにくい改善」は、a millionのlikesより満足に寄与し得る。
better life(より良い生活)は、意外とすぐ近くにある。派手な転換ではなく、banal(平凡な)貯金、早めに帰宅すること、しっかり眠ること、家族とのいつもの夜、友人との散歩。こういう地味な改善が、大きな違いを生むことがある。
しかも、それらは目に見えにくい。疑いが減る。ストレスが減る。人との関係が良くなる。financial stability(経済的安定)が増す。self-respect(自尊心)が育つ。こうしたものがもたらす感情は、写真に付くa millionのlikesより強い場合がある——少なくとも、そういう可能性がある。ここは「必ずそうだ」と断言するより、「寄与し得る」と置いておくのが自然だろう。
「幸せの瞬間」のパフォーマンスを止める、という話の含意
共有自体は自然な行為だが、共有なしでは行動できない状態や体験前にカメラを選ぶ癖は、出来事を薄めてanti-event化し得る。
良い瞬間や勝利を共有したい、という気持ちは自然だ。身近な人に対しても、social mediaに対しても。そこは否定しない。問題があるとすれば、共有が前提になってしまうこと。共有しないなら、やらない。共有できないなら、行かない。そういう形に寄ると、生活の中心がすり替わっていく。
そして、体験の前にカメラを選ぶ。出来事より先に撮影。すると、出来事そのものがanti-event(反出来事)になってしまう、という比喩がここで効いてくる。つまり、起きたのに起きていないみたいな感じ。そこにいたのに、いなかったみたいな感じ。比喩だけど、わりと刺さる。
インターネットに載らない「もう一つの人生」
私たちにはインターネットから切り離された静かな生活の層があり、それは見えないが重要であり得る。
インターネットから完全に遠ざけられた人生の版(there is a version)がある。画面で観察する人々とは別の、並行した生活。静かで、シンプルで、でも幸福を妨げるhidden traps(隠れた罠)もあり得る。
人生は、重要な瞬間だけでできていない。普通の瞬間も混ざる。その全部が、ネット上で“皆に見られるため”に存在しているわけではない。見えないまま残る部分がある。でも、見えないから価値が低い、ということにはならない。たぶん逆で、見えないから守られる価値もある。
技術の進歩=より良い人生、とは限らない
技術の進歩は利便性や選択肢を増やす一方、機会が増えることがそのまま良い人生を意味するとは限らない。
技術の進歩によって、生活は多くの点で便利になった。学べることが増え、コミュニケーションの仕方も変わり、可能性や選択肢、潜在能力を実現するルートは以前より多い。これは否定しにくい。
ただ、それでも。opportunities(機会)が増えたことが、必ずしもbetter life(より良い人生)に直結するわけではない。better-looking life(より見栄えの良い人生)が、better lifeを意味しないのと同じで、ここは単純な等号では結べない。何がより良い人生かは、結局のところ個人ごとに合意(agreed upon)されるべきものになる。
「証明のいらない生活」が示す自由
「証明のいらない生活」とは、他者の視線や評価から距離を取り、自分にとっての良さで選べる状態を指し得る。
筆者の意見として(I believe)、自分がやっていることが良いかどうかを、他の誰にも関係なく自分だけの問題として感じられる場所に到達できたら、それは良いことだ、という結びになる。つまり、生活の価値が“証明”を必要としない状態。
写真を投稿する価値があるか、説明文を付けて印象を良くするべきか、そういう判断から少し離れて選べる。たぶん、それがfreedom(自由)なのだろう、という形で文章は閉じていく。誰も見ていない。だから誰も裁けない。そこで初めて、出来事が「出来事」として戻ってくる——そういう余韻。
